私がはじめて葉月会を見たのは、中村(当時は加賀屋)歌江の「敷島物語」であった。
「敷島物語」は河竹黙阿弥の作品。片足を脱疽のために失った三代目沢村田之助に書下ろした怪談ものである。田之助が枕探しの疑いをかけられて責め殺された花魁敷島から早替りで二役の悪女お玉になって長持ちの陰からスーッと立つ。そのあざやかさが大評判になった。しかしその後は二代目実川延若が得意の早替りで見せたほかはほとんど上演されなかった。この早替りは、延若の時も評判になって一つの伝説になった。
その伝説を雑誌で読んだ私は、長い間この芝居を見たいと思いつづけていた。だからこの芝居が葉月会によって上演された時は、国立劇場にスッ飛んで行った。
その舞台の成果は別のところに書いたから繰り返さないが、この敷島とお玉の二役は、歌江一世の当り芸であった。もともとマゾヒスティックで陰惨な芝居だが、歌江の敷島が折檻されていくと、劇場の客席が異様な熱気に包まれて、冷房があるにもかかわらずジットリとあぶら汗が流れるようであった。
今でもあの衝撃は忘れられない。これぞ幕末の江戸の芝居という印象であった。おそらく今後どんな役者がやっても、あの濃厚で異様な雰囲気は出ないだろう。歌江自身も必死の健闘だったが、何よりも彼の女形としての芸質が、あの二役、あの芝居に合っていたのである。大歌舞伎とは違う面白さであった。
この「敷島物語」の大当り、といっても観客の入りは決してよくなかったから興行的には大当りとはいえないだろうが、舞台はまさに大当りであって、このあと葉月会は毎年珍しい狂言を復活するようになった。
「白浪五人女」「傾城重の井」「鵜飼のかがり火」「姐妃のお百」「花井お梅」「高橋お伝」「新累」「於夏聞書」どれも幕末から明治へかけての珍しい狂言ばかり。むろん私ははじめて見る演目ばかりだった。
そのありさまは私に遠く大正時代の宮戸座を思わせた。宮戸座は浅草にあって、四代目沢村源之助や浅尾工左衛門といった腕達者が揃って珍しい狂言を演じていた劇場である。久保田万太郎の「芝居修行」という本を読むと、当時の宮戸座の舞台がさながら眼前に髣髴として、やはり大歌舞伎では失われた江戸の匂いが漂っていたことがよくわかる。
葉月会はまさに平成の宮戸座であった。
先ほど上げた演目は私にはいずれも目新しかったが、なかでも私が「敷島物語」についで感動したのは黙阿弥の「月梅薫朧夜」つまり花井お梅だった。
お梅が浜町河岸で箱屋の巳之吉を殺した事件は、川口松太郎の「明治一代女」になり、新派の名女形花柳章太郎の当り芸になり、歌謡曲になって一世を風靡した。しかし実は事件直後に黙阿弥が五代目菊五郎のために書下ろしている。それが「月梅薫朧夜」である。
この作品は一種のドキュメンタリー・ドラマの傑作で、その枯れて抑えた筆致は黙阿弥晩年の新境地であり、活歴や散切り物よりもはるかにすぐれた黙阿弥窮極の名作であるが、このお梅(黙阿弥ではお粂である)を歌江が演じて、それを目の当たりにしたときには、戯曲を書斎で読んでいただけではわからぬ感動を味わった。そして私が書いた「黙阿弥の明治維新」の「月梅薫朧夜」はこの時の観劇体験がもとになっている。
むろん花柳のお梅も傑作だったが、歌江のお粂は、五代目菊五郎がリアルに演じた歌舞伎のお粂であって、花柳の甘さ、したたるさ、スケールとは全く違って、渋くて、さびしくて、やるせない明治の女だった。
今でも私には、橋のたもとで、コウモリ傘をついて立つ歌江のお粂の姿が忘れられない。家を出て、どこへ行くあてもなく、ひたすらさすらいつづけている女のわびしさが舞台にひろがっていたからである。
これが実際にお梅を知っていた黙阿弥と五代目のつくった味なのだと思った。
この芝居ばかりでなく、葉月会では、歌江のほかにも、幸右衛門、鉄之助、大蔵といった人たちの活躍も忘れることができない。脚本演出の持田諒も含めて、多くの人たちが協力した。
葉月会後半の珍しい狂言の復活は、平成演劇史の貴重で、ユニークな夢の一頁であった。
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