第二回(昭和58年8月18日、12時半・17時開演)
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「傾城阿波の鳴門」
「供奴」
「釣女」
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竹本演奏「団子売」
※演奏のみ
長唄囃子演奏「京鹿子娘道成寺」
※演奏のみ
「傾城阿波の鳴門」(けいせいあわのなると) どんどろ大師の場
中村梅花=指導
お弓=加賀屋歌江(中村歌江)、おつる=澤村宗丸(澤村宗之助)、妙林=市川左升、妙珍=實川延寿、茶店娘=中村京之助、参詣人=郡司健、参詣人=後藤明夫(市川段之)、参詣人=後藤順一、参詣人=島田和彦(中村歌次)、参詣人=堤千里(坂東大和)、参詣人=藤田明広(坂東玉雪)、参詣人=若生稔(中村芝光)
「供奴」 長唄囃子連中
坂東三津五郎=振付
奴=坂東みの虫(坂東三津之助)
「釣女」 常磐津連中
藤間勘十郎=振付
太郎冠者=松本幸右衛門、醜女=加賀屋歌江(中村歌江)、大名=松本幸雀、姫御寮=中村京之助
補足:第二回公演をふりかえって
第二回から芝居が入りました。
はじめに演奏のみの『団子売』と『京鹿子娘道成寺』。次ぎに舞踊の『供奴』(八代目坂東三津五郎振付)と『釣女』(先々代藤間勘十郎振付)。そして最後に芝居の『傾城阿波の鳴門』という狂言立てでした。
この第二回から、若手の牽引車として、加賀屋歌江(現・中村歌江)と松本幸右衛門が加わりました。またこの年から、保存会の事務局長に、かつて菊五郎劇団の事務に携わっていた経験のある成島和男が就任し、「葉月会」のプロデューサーとしての役割を担っていきます。
【成島】
私が保存会の事務局長に就いたのは、「葉月会」で芝居を出そうという計画があり、「歌舞伎の制作の経験者を」ということもあってのことと記憶しています。とはいえ、勉強会を制作するのは初めてでしたので、いよいよ「葉月会」で芝居をやると決まると、すぐに歌江さんのもとへ相談にうかがいました。それは歌江さんが長年「歌舞伎会」で指導的役割を担っていらしたことと、「小莟会」(歌右衛門指導の成駒屋一門の勉強会)で活躍していらしたことを考えて、牽引車には歌江さん以外にはありえないと考えたからでした。
新たにできたばかりの勉強会でしたので、当初は予算や切符を売る苦労ばかりでした。しかも一回目の会場は国立劇場小劇場でしたが、二回目から大劇場になった。ありがたいことですが、客席数が1600席近くある〈箱〉にどうやってお客さんを呼ぶか……。プロデューサーとして大きな課題でした。
意外なところで切符を買ってくれたのが、国立劇場近くのホテル・ニューオータニに宿泊する外国人観光客でした。当時は八月に歌舞伎座や国立劇場へ行っても歌舞伎の興行がなかったので、せっかく日本に来た外国人観光客が「歌舞伎を見たい」と思っても、見られなかったのです。そういう人たちに声をかけては切符を売りました。とても喜んでくださいました。
【歌江】
『傾城阿波の鳴門』を、と言い出したのは私です。成島さんから「葉月会」のお話をいただいたとき、「ならば『どんどろ』をやりたい」と申し上げました。梅花(ばいか)さん(五世中村歌右衛門の直弟子の中村梅花。故人)がお元気でしたので、ご指導をお願いいたしました。梅花さんは昔の芝居をたくさん見てらして、隅々までよくご存知でしたし、女形の生き字引のようなところがありました。現役の研修生にも出演してもらいましたが、彼らの指導もすべて梅花さんにお願いしました。これ以降、亡くなるまで「葉月会」の芝居については手取り足取り、とてもお世話になりました。
また、踊りは先代の藤間勘祖さん(二世)が、振付けからお稽古からすべて見てくださいました。「あなたが演るのなら、踊りでも芝居でも全部やってあげるからね」とおっしゃってくださった言葉に甘えさせていただき、お元気な間はずっと「葉月会」のご指導をお願いいたしました。
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